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滋賀県


あづちじょう


安土城遠景


琵琶湖方面を望む
安土城 (滋賀県近江八幡市安土町)
天守:なし  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1576年 織田信長の命により築城が始まる。総普請奉行は丹羽長秀
1579年 織田信長が入城する。
1581年 織田信長、盂蘭盆会(うらぼんえ)を行う。
1582年 本能寺の変明智秀満の退却後、天主が焼失。
同  年 清州会議後、三法師(織田秀信)とその後見役・織田信雄が入城する。
1583年 織田信雄、羽柴秀吉の命で退去する。
1585年 豊臣秀次の近江八幡築城にともない廃城。

(メモ)

 織田信長が居城として最後に築いた城で天守閣をもつ近世城郭の先駆け。
 安土城の天守は「天主」と表記する。
 現存していないが、天主は5重6階地下1階の望楼型で、5階には朱色の八角堂があったといわれ、復元されたものが城跡近くの「信長の館」にある。防御施設というより、見せるため、権威の象徴として築かれたと考えられている。
 安土城築城を描いた映画「火天の城」はかなりおススメ。
天主閣跡 黒金門から二の丸、本丸への道 摠見寺仮本堂(伝 徳川家康邸跡)
伝 羽柴秀吉邸跡 伝 前田利家邸跡 大手道



かんのんじじょう


観音寺城遠景
繖山(きぬがさやま)


佐々木城跡の石碑
観音寺城 (滋賀県近江八幡市安土町)
天守:なし  日本100名城  日本五大山城  日本五大山岳城 
戦国期を中心とした主な歴史
1335年頃 南北朝の争いで北朝方の六角氏頼が南朝方に備えて籠ったとい
    う記述あり。ただし観音正寺を砦として利用した程度だという。
1350年 観応の擾乱。
1351年 観応の擾乱で足利尊氏に味方した佐々木道誉が足利直義方に敗れ
    当時「佐々木城」と呼ばれていた観音寺城に籠城したとされる。
1468年 第一次・二次観音寺城の戦い。城郭らしきものがあったとされる。
1518年 六角定頼が六角家14代当主となる
1525年頃 この頃には城郭が完成していたといわれる。
1532年 定頼、室町幕府12代将軍・足利義晴を迎え入れる。
    義晴を迎えるため城の大改修があったとされる。六角家の全盛。
1550年頃 この頃には石垣をもつ大城郭が完成していたとされる。
1552年 定頼死去。義賢が六角家15代当主となる。
1560年 義賢、野良田の戦いで、浅井長政に敗れる。
1563年 観音寺騒動。六角家に衰退の兆しが見え始める。
1568年 六角義賢、織田信長の上洛軍をまえに逃亡。無血開城となる。
(メモ)
 南近江に勢力を誇った佐々木六角家の居城。曲輪が1000以上あったといわれる大城郭。しかし、大きすぎるが故に防御には適さなかったともいわれる。
 2025年現在、城跡の整備を定期的に行ってくれており東海道新幹線の車窓からでも大石垣を見ることができる。
 城跡に行くなら観音正寺から行くことと(拝観有料)観音正寺近くの駐車場(有料)を利用することをお勧め。徒歩で登ると観音正寺までは1200段のきつい石段、そこから険しい登山道での登城となるので相当な覚悟が必要。
伝平井丸跡の石垣 大石垣 大石垣から城下を望む
権現見付近くの石垣(観音正寺入口) 観音正寺 観音正寺石垣



はちまんやまじょう


八幡山城遠景

村雲門跡瑞龍寺(本丸跡)
八幡山城 (滋賀県近江八幡市宮内町)
天守:なし  続日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1585年 豊臣秀吉の普請により築城される。城主は豊臣秀次
1590年 秀次、尾張清州に転封。京極高次が2万8千石で入城する。
1595年 秀次事件。高次、大津に転封。秀吉の命により取り壊される。
(メモ)
 豊臣秀吉が甥・秀次のために自ら築城した。築城にあたって本能寺の変による被害を免れた安土城の居館、城下町が移され安土城に代わる近江国の国城となった。
 1595年の秀次事件で秀次を切腹に追い込んだ秀吉は秀次の痕跡をことごとく破却するという暴挙にでて聚楽第と共に築城からわずか10年で破壊された。
 本丸に建つ村雲門跡瑞龍寺は秀次の母・日秀尼が開基で秀次の菩提寺でもある。もとは京都にあった門跡寺院だが昭和30年代の後半に八幡山城の本丸跡に移転した。
 城は秀吉によって破壊されたが城下町の商家や八幡堀は残され近江商人によって繁栄を極めた。
 1970年代に埋め立ての話があがったが、地域住民の働きで保存され、現在は国の重要文化的景観の第一号に指定されている。江戸時代の面影を十分に残している景観から「暴れん坊将軍」「剣客商売」「御家人斬九郎」「広重ぶるう」劇場実写版の「るろうに剣心」など時代劇の撮影に使われた。
 城跡には徒歩でも行けるが大変そうなのでロープウェイをお勧めする。

石垣 西の丸跡から琵琶湖方面を望む 八幡堀(重要文化的景観)



くにともてっぽうのさとしりょうかん

国友鉄砲の里資料館 (滋賀県長浜市国友町)
 国友は、戦国時代屈指の火縄銃の生産地。この地で製造されたものは「国友筒」と呼ばれる。
 薩摩・島津家から室町幕府12代将軍・足利義晴に献上された火縄銃を模して造ったのが初めてとされ、姉川の戦い以降は、織田信長の支配地となり、500挺の注文を受けたこともあるといわれる。
 銃床をつくる「台師」、金属部品を作る「からくり師」ら専門の職人たちが住み、分業体制で製造していた。

(メモ)
 現在も資料館の周辺には「国友」さんが住んでおり、町も雰囲気づくりを頑張っている。
 江戸末期には、発明家で天文学者でもある国友一貫斎を輩出した。



ながはまじょう


模擬天守
(市立長浜城歴史博物館)
長浜城 (滋賀県長浜市公園町)
天守:模擬天守
戦国期を中心とした主な歴史
1573年 羽柴秀吉が築城を開始。「今浜」を「長浜」と改名し、長浜城とする。
1582年 清須会議後、柴田勝家の甥・勝豊が城主となるが、賤ヶ岳の戦い前に勝豊は秀吉方に寝返る。
1585年 山内一豊が城主となる。
1590年 小田原征伐後、山内一豊が遠江掛川に加増移封。
1606年 徳川譜代・内藤信成・信正親子が入城
1615年 内藤信正、摂津高槻に移封。廃城となる。
(メモ)
廃城後、資材の多くが彦根城築城に流用されたため、遺構は石垣などが僅かに残るのみ。
「長浜」の「長」は織田信長から一字もらったもの。



おだにじょう


小谷城遠景

金吾丸跡
朝倉宗滴が5ヶ月滞在し六角、浅井の
調停に尽力。調停の際にも利用された

小谷城 (滋賀県長浜市湖北町)
天守:なし  日本100名城  日本五大山城
戦国期を中心とした主な歴史
1523年 守護・京極家の被官・浅井亮政により築城される(年代には諸説あり)。
1525年 南近江の六角定頼の侵攻を受ける。亮政、一時美濃国へ逃亡(のち復帰)。
1538年 再び定頼の侵攻を受ける。亮政、定頼と講和し地位は維持する。
    (講和には朝倉宗滴が尽力したとされ浅井、朝倉の親交の始まりという)
1542年 亮政死去。嫡男・久政が家督を継ぐ。
1552年 久政、六角義賢(承偵)に圧迫され臣従する。
1559年 久政、家督を長政に譲り隠居する。
1560年 野良田の戦い。長政、義賢に勝利し六角家より独立する。
1567年 長政、織田信長の妹・お市を娶り織田家と同盟を結ぶ(年代には諸説あり)。
1570年 金ヶ崎の戦い。長政、信長を裏切り朝倉家と共に織田家と敵対する。
    姉川の戦い。長政、朝倉家と共に織田・徳川連合軍と戦うが敗れる。
1573年 信長による小谷攻め。長政自害。羽柴秀吉が領主となる。
1575年 秀吉、長浜城を築城。廃城となる。

(メモ)

建築物はないが、遺構はしっかりと整備され要害堅固だったことが分かる。
小谷攻めの際、信長が本陣を置いた虎御前山がよく見える=めっちゃ見張られてる。
大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のロケ、琵琶湖を望むシーンで使われた。
五大山城だけに麓から徒歩で登るのは大変。寸前まで車で行くことをおススメ。
本丸下の石垣 千畳敷曲輪 虎御前山(写真中央・信長本陣跡)



あねがわこせんじょうあと

姉川古戦場跡 
(滋賀県長浜市野村町)
 1570年に姉川の戦いが行われた場所。
 越前・朝倉攻めを浅井長政の離反によって阻まれた織田信長は、京都を経て岐阜へ帰還。体制を立て直したのち、徳川家康と共に北近江に進出して浅井・朝倉連合軍をこの地で破った。

(メモ)
 石碑と案内板以外、これといったものはない(と思う)。



ひこねじょう


複合式望楼型天守
彦根城 (滋賀県彦根市)
天守:現存天守  国宝  日本100名城
戦国期を中心とした主な歴史
1600年 井伊直政、佐和山城を与えられるが、これを嫌い、新たに築城を決める。
1602年 井伊直政没。子・直継(直勝)が遺志を継ぐ。
1603年 彦根山(金亀山)で築城が始まる。
1606年 天守が完成し、直継(直勝)が入城する。
1615年 徳川家康の命により直継の弟・直孝が城主となる。
(メモ)
 国宝に指定されている天守をはじめ、天秤櫓、太鼓門櫓など多くの建造物が現存しており、たいへん見応えがある。
 キャッスルロード(土産通り)は城下町を意識して造られており、なかなか熱い。
天秤櫓(重要文化財) 太鼓門櫓(重要文化財) 名勝 玄宮園
西の丸三重櫓(重要文化財) 馬屋(重要文化財) 初代・井伊直政像(彦根駅前)
 


井伊直政所用 朱漆塗仏二枚胴具足


彦根城博物館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

井伊直政所用 朱漆塗紺糸威桶側胴具足
 井伊直政もしくは直孝所用と伝わる大天衝の脇立兜つきの具足。井伊の赤備を代表する具足で、歴代当主がこれを摸して赤備をつくったといわれる。

井伊直政所用 朱漆塗仏二枚胴具足
 井伊直政所用の具足で、関ヶ原の戦いで着用したと伝わるもの。赤備の具足の特徴である兜に大天衝の脇立がなく実戦向き。

井伊直孝所用 朱漆塗燻韋威縫延腰取二枚胴具足
 「しゅうるしぬりふずべがわおどしぬいのべこしとりにまいどうぐそく」と読む井伊直孝所用の具足。初代・直政の赤備を引き継いだ一領。

朱地井桁紋金箔押旗印
 井伊直政が関ヶ原の戦いで使用したと伝わる井伊家の旗印。

太刀 銘 来国光
 山城国・来派の刀工・国光が鍛えた井伊直政の指料(さしりょう)。

宮王肩衝茶入
 室町幕府8代将軍・足利義政が所有していた肩衝茶入。松井友閑から豊臣秀吉に献上され、大阪夏の陣後に徳川家康の手を経て、井伊直孝が拝領した。



ひえいざんえんりゃくじ

比叡山延暦寺 (滋賀県大津市坂本本町)
戦国期を中心とした主な歴史
788年 最澄により開山。
1336年 室町幕府初代将軍・足利尊氏と対立した後醍醐天皇に協力する。
1435年 室町幕府6代将軍・足利義教と対立した僧たちが根本中堂に火を放ち焼身自殺をする。
    義教、数年のうちに根本中堂を再建する。
1499年 室町幕府管領・細川政元が対立していた10代将軍・足利義稙に協力して焼き討ちされる。
1570年 志賀の陣織田信長と対立していた朝倉義景浅井長政に協力する。
1571年 信長による焼き討ち。根本中堂が焼失する。
1582年 本能寺の変。信長が亡くなったことにより勧進活動が始まる。
1584年 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が山門復興の許可を出す。
    その後、秀吉、徳川家康から寺領の寄進を受け、江戸時代に入ると天海の活動により再興が進む。
1642年 江戸幕府3代将軍・徳川家光によって本格的に根本中堂が再建される。
(メモ)
 高野山金剛峯寺と並ぶ日本仏教の聖地で、平安時代の古典文学で「山」といえば比叡山をさすというほどの古刹。
 町中に寺院が点在している高野山と違い、山麓の町から独立するように比叡山全体に寺院が点在する。
 最澄が開山したときに本尊の薬師如来を灯して以来、1200年以上燃えづづけている「不滅の法灯」がある。
 法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など現代の日本仏教を代表する宗派の開祖たちがみな比叡山で学んでいる。
 織田信長の焼き討ちにより壊滅状態となったとされるが、最近の発掘調査から焼失したのは根本中堂ぐらいだったとの説もある。
 比叡山は京都府と滋賀県の県境の山であるため、車で登る途中に設けられた展望場所によっては両方の町並みを眺望できる。
大講堂 阿弥陀堂 法華総持院東塔
文殊楼(重要文化財) 令和の大改修中の根本中堂



おんじょうじ

 長等山園城寺(三井寺) (滋賀県大津市園城寺町)
戦国期を中心とした主な歴史
7世紀 開基は大友与多王。大友氏の氏寺として草創される。
859年 円珍(空海の妹、もしくは姪の息子)が初代長吏となり、その後の発展の礎を築く。のち比叡山の別院となる。
886年 円珍が比叡山延暦寺第5代座主となる。
891年 円珍入寂。直後から比叡山では3代座主・円仁の門派と円珍の門派の対立が始まる。
993年 円珍の門派が比叡山を追放され園城寺に入り、天台寺門派の総本山となる。その後も比叡山との対立は続く。
平安時代 藤原道長、白河上皇ら皇族、貴族の崇敬を集める。
南北朝時代 北朝に与し足利氏を支持する。その縁で室町時代には幕府の保護を受ける。
1571年 比叡山焼き討ち織田信長が本陣を置く。
1582年 本能寺の変後、山崎の戦い明智光秀に勝利した羽柴秀吉が園城寺で光秀の首実検を行う。
1595年 秀吉の勘気を被り廃寺寸前に追い込まれる(何によって勘気を被ったかは諸説あり定かではない)。
1598年 秀吉が再興許可を出す。
1599年 高台院(秀吉正室)により金堂が再建される。
1601年 仁王門、三重塔が徳川家康によって寄進される。
(メモ)
 平安時代から戦国時代にかけて23回炎上しているが、そのうちの14回は対立関係にあった比叡山による焼き討ち。
 焼き討ち以外にも秀吉の勘気を被るなど廃寺の危機に面しており、その都度復興しているため「不死鳥の寺」と呼ばれている。
 園城寺というより三井寺の名で通っており、梵鐘は近江八景「三井の晩鐘」で知られている。
 比叡山との対立(山寺両門の争い)の象徴「弁慶の引き摺り鐘」がある。
 朱色を基調とした建造物が多い比叡山延暦寺に対し茶色を基調とした渋い建造物が多い。
金堂(国宝) 仁王門(重要文化財) 三重塔(重要文化財)



おおつじょう

大津城 (滋賀県大津市浜大津)

石碑

石碑に添えられている縄張り図

戦国時代を中心とした主な歴史

1586年 浅野長政坂本城を廃して城を築く。
1589年 長政が転封。増田長盛が城主となる。
1591年 長盛が転封。新庄直頼が城主となる。
1595年 直頼が転封。京極高次が6万石で入城する。
1600年 関ヶ原の戦い
 9月7日 高次、東軍に属し毛利元康立花宗茂ら西軍1万5千相手に3千で籠城する。
 9月14日 高次、7日間の激戦の末、降伏開城。
 9月15日 関ヶ原本戦。東軍・徳川家康が西軍・石田三成を破る。
     高次、1万5千の兵を釘付けした功績が認められ若狭小浜に8万2千石を得る。
     高次に代わり戸田一西が入城。
1601年 一西が膳所城を築いて移ったため廃城。

(メモ)
本丸の背後は琵琶湖で、城内に水を引入れ水運を有効活用できる造りになっていた。
関ヶ原の戦い後、廃城に伴い使える素材が彦根城や膳所城の建築のため使われた。
現在、城跡は完全に開発され遺構は何も残っておらず本丸跡に石碑が残るのみ。
第166回直木賞を受賞した「塞王の盾」は京極高次の籠城戦がクライマックスの作品。



さかもとじょう

坂本城 (滋賀県大津市下阪本)
戦国期を中心とした主な歴史
1571年 比叡山焼き討ちで功があった明智光秀織田信長から坂本の地を与えられる。
1572年 光秀により築城が始まったとされる。
1582年 本能寺の変。光秀、本能寺にて信長を討ち果たす。
    山崎の戦い。光秀、中国地方から大返しをしてきた羽柴秀吉に敗れ、帰城途中に土民によって殺害される。
    明智秀満(光秀娘婿)、羽柴方の武将・堀秀政に城を包囲されると城に火を放ち自害する。
    丹羽長秀が再建して入城。その後、杉原家次、次いで浅野長政が城主をつとめる。
1586年 浅野長政が大津城を築いたことにより廃城。
(メモ)
本丸の背後が琵琶湖に面した水城で、琵琶湖から船で直接城内に入ることができたという。
宣教師・ルイスフロイスは著書「日本史」で安土城に次ぐ荘厳華麗な城と紹介している。
公卿で神道家でもある吉田兼見の著書「兼見卿記」には天守をもつ城であったことが記されている。
現在、城跡は企業の所有地であったり個人宅であるため普段から見ることのできる遺構はほとんどない。
琵琶湖に石垣が沈んでいるが、水不足などで水位が低くならないと現れない。
城内だったと推測される個人宅の一角に明智一族の墓で光秀の脇指である郷義弘や宝物を埋めたという明智塚がある。
駐車場や光秀の石像がある坂本城址公園は実際には縄張りとされる場所からは外れている。
 
二の丸跡の住宅地にある石碑 城址公園にある縄張り図 明智塚